twitterの研究者と子育て議論を読んで

むちゃくちゃ久しぶりの更新ですが、一昨日の夜のtwitter上の「研究者と子育て」タイムライン(Togetterによるまとめ: http://togetter.com/li/6911)を読んでいて思ったことを書きます。Twitterでつぶやこうかと思ったけど、長くなったのでこちらに。

自分も子育て中の研究者なので、研究時間と子育てや家事の時間をバランスについては悩む事も多い。とくに現代のように、あたかも研究者にとって「競争」が本質であるかのように見えている時代には。

そもそも僕は研究が競争に見立てられ、研究者がまるでラットレースをさせられてるような状況がとても嫌だ。(子供の頃から競争が嫌いなので。)同じテーマでどちらが早く論文を出すか競っているような人たちにとっては現に競争なのかもしれないけれど、でもそれは研究の本質ではないはず。ある局面では、まあそういうこともあるよね、くらいの話。

自分の研究はオリジナルなもので、自分がやらなければ誰もやらない(だろう)もの。そして多くの人が面白いと思ってくれるに違いないもの。そこには勝ち負けじゃ測れない独自の価値があるはずだ、と信じている。世の中のほとんどの研究はそういう独自の価値を持つものであるはずなのに、やれ論文数だ、IFだ、外部資金の獲得額だ、なんて単純化した軸をわざわざ設けて、その上で競争をさせられる。それって楽しい? 楽しい人もいるのかも。でも僕には苦行だ。研究が苦行じゃ意味ないよ。この馬鹿馬鹿しさは、たとえば音楽家の価値を「CDの売り上げ」という一つの基準で測ろうとするのが馬鹿げているのと同じ事だと思う。だから僕はそんなレースからは降りたいと思っている。大きなお金を動かしたいとも、賞がほしいとも、ビッグラボを構えて人をたくさん使って研究したいとも思わないし。(研究費があれば研究の速度は上がるので、多少のお金は欲しいけど。)

もちろん、良い研究をしようとは、強く思っている。自分にしかできない研究、ほんとに自分が楽しい研究、人にも楽しんでもらえる研究を、楽しみながらやりたい。そして一緒に楽しんでくれそうな人たちにはそれを伝える。そのために論文を書き、人と話す。それができればもう十分に満足。

かくして研究する動機が競争とか研究費とか出世とか名誉というような他律的な動機でなくなってしまえば、限られたリソースを研究や子育てにどれだけ割けるかは自分の価値観しだいで決められる。リソースをどう配分すれば最大限のHappyが得られるかを考え、決定する、その権限が他人ではなく自分にある(その責任も自分にある)のだという自覚が芽生えたのは、子育てを始めてからだと思う。僕の場合、子どもが生まれて、明らかに研究に使える時間は減ったけど、人生の幸福度は明らかに上がっている。

ただ、たぶん僕は幸運で、比較的恵まれた環境にいるから、こう言えるんだろうなとも思う。現に生き延びるための競争にさらされている人に「降りろ」とは到底言えないわけで。僕が恵まれていると思うのは、うちの学部は基本的にリベラルで、助教でも教授の下働きではなく(もちろん様々なコラボはありつつも)、完全に自分の独自テーマで、独自の方針で、研究ができる。その分、教養教育のdutyなど、大変な事も多いのだけど、それでも自分の好きな研究が出来るという研究者に取ってもっとも大事なことが満たされているのはとても幸せなこと。

そういう職場に職を得られたのは、ただ単に僕が幸運だったから。でも、だからこそなのだけど、この環境を生かして、研究者だって、そういうレースに乗らない生き方もできるんだ、ってのを実践していくのも、自分の役目(大袈裟だな…)じゃないかと思うのでした。


バランスが大事。